キリスト中心

みなさんの人生の中心には誰がいますか?何がありますか?

 私たちは皆生きていくのに誰かを、何かを中心にしていると思います。お金や名声、評価や知識、見た目や持ち物、友達や家族などです。その中心が満たされると安心し生きていく力を得ます。反対に満たされなければ不安になり、満たされるように求め続けたり時には諦めたりします。

 神様と出会う前、私はいつも理想の自分を求めていました。そして私の中心には周りの反応や評価に影響される自分がいました。神様と出会い、2008年にイエス様を自分の主として受け入れた後、自分は神様中心に歩んでいると思っていました。でも実際は、自分の中心にはまだまだ自分がいました。

 エブリネイション教会のミッション声明では「日本、アジア、そしてすべての国にキリスト中心で御霊に強められた、社会的に責任を持った教会と キャンパスミニストリーを建て上げることで神に栄光を帰す」です。 

 私の経験を交えながらキリストを中心について少し分かち合わせてください。

1 自分中心

 理想の自分を求めて生きていた私は、救われてからも何とか理想のクリスチャンを目指していました。頑張って認められ、評価され、理想のクリスチャンになろうと。気がつくと、奉仕をしている自分、賛美している自分、神様に仕えている自分、祈りが応えられた自分中心になっていました。自分の中心には理想の自分になろうとする自分がいたので、理想に近づけると嬉しくなり、近づけないと不安になっていました。神様を求めているつもりが、神様を求めている自分を求めていました。自分の中心に神様がいないことに気づいた後、神様を中心に生きたいと祈りました。

2 キリスト中心

 神様を中心に生きることについて考えた時、イエス様のことを思い出しました。イエス様は自分の思いや感情、痛みよりも天の御父様の思いを求めました。神様を中心にすることは正直怖かったです。今まで積み上げてきたもの、積み上げてきた自分が消えてしまいそうな感覚でした。

 でも、いつも変わらない、いつも変わらずに愛してくれる方を中心にしたら、もう自分で満たそうとしなくてもいいんじゃないかと思いました。

 神様は私を見て、無条件に愛しているよと言ってくれています。私は恵みによって救われました。それは私が何かをしたからでも、何ができるからでもなく、ただ神様の恵です(エペソ人の手紙2:8)。そして神様は私たちの心を求めています。

 それまで自分で何とか満たそうとしてきた部分を少しずつ神様に渡していきました。他の人から評価されたい気持ちを渡し、神様の愛に溢れた目を見つめます。何とか認められようとしていた気持ちを渡し、いつも変わらず愛してくれる神様を見つめます。誰かを喜ばせようとする気持ちを渡し、ありのままの自分を愛してくれる神様を見つめます。

 神様が少しずつ心の中で働き始めてくれました。それまで認められようと頑張っていた気持ちが変わりました。自分のためではなく神様と他の人に仕えたいという思いが芽生えました。思い通りになった一瞬の満足感ではなく、心が求めていた平安が来ました。そして、神様のために生きる喜びと力、目的を受け取りました。

 私たちは何かを、誰かを賛美するために作られています。もしも賛美をする対象が移り変わる自分自身や人、物だったら私たちの心も揺り動かされてしまいます。

 いつも変わらない、無条件に愛してくれる神様は私たちの中心になって私たちとの関係を築きたいと思われています。みなさんは神様との関係を受け取りますか?キリストにおける私の兄弟姉妹、そしてまだあまり神様のことを知らない方へ。自分自身に問いかけて心を見てほしいです。みなさんの心の中心には誰が、何がいますか?それは永遠の平安をくれますか?それとも一瞬の楽しさでしょうか。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

ガラテヤ人への手紙2章20節

◇岩手早代