混沌の中に見出す平安

お母様方、母の日おめでとうございます!コロナ禍での1年目を乗り切りましたね。思った通りの1年でしたか。多分そんなことはないでしょう。特に私にとっては想定外の1年でした。  私は、東京での新型コロナ感染流行第一波の初期に出産しました。ちょうど昨年の5月初め、東京はまるでゴーストタウン。(海外のように外出禁止というわけではありませんが)渋谷スクランブル交差点は、人通りが激減。病院では、配偶者、親戚を始め訪問者を一切認めなくなりました。出産であろうと関係なく、陣痛が始まっても付き添いは一切なし。は~っ。 ひどく落ち込み、怒りすら覚えました。こんな状況に置くなんて神様ひどすぎませんか、と思ったほどです。お母さん方、この気持ち、わかりますか。わかる人、手を挙げてください!  ずいぶん後に、私は平安ではなく怒りに支配されていた、と気づきました。  実は、私は自他ともに認める、超がつくほどの計画好き。特に計画通りに物事が運んだときは最高の気分です。裏を返せば、臨機応変なタイプではないということ。そんな私にとって、この1年は本当に大変でした。その中で学んだことを、お伝えしたいと思います。それは子育てのアドバイスでも、自己啓発でもありません。真理の書、聖書の言葉です。  「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 ピリピ人への手紙 4:7  神の平安。地上でのすべての出来事を超えた、平安です。  人のすべての考えにまさる神の平安。それは、万事うまくいけば訪れるといった平安ではありません。概して人は、自分が思った通りに物事が進むと平安を得ます。でもこの1年間、人々の平安は根幹から揺るがされました。自分ではどうにもならない状況に直面したからです。一方、神の平安とは何でしょうか。それは、未知の世界で、物事が思うようにいかなくても訪れる平安。人間の論理を超えた平安。混沌の真っただ中に訪れる平安です。 神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。神の平安が私たちを心配、恐れ、疑い、不安から守ってくれます。自分の心を年中無休で守ってくれるガードマンなんているのでしょうか。はい、それがイエス・キリストです。イエス様は常に変わらない、愛に溢れた信頼できる、全宇宙の創造主です。イエス様を知れば、すべての考えに勝る平安が与えられます。イエス様があなたのガードマンです。  私は聖書に出てくる3人の強き母親について思い出し、それぞれどんなふうに意気消沈したか考えてみました。 サラ 「あの人はまた子供を産んだのね。私は一生、子供なしの人生を過ごすんだわ。」 ヨケべテ 「なぜ神様は、エジプトの王女が息子を育てるのをお許しになるのでしょう。そんなのおかしいわ。」 マリア 「この馬小屋にスイート・ルームはないの?私は救い主を生むのよ!」  3人が歩んだ人生は想定外のものだったでしょう。サラは、自分の女召使を通して夫に息子をもうけ、ヨケべテは自分の民族を抑圧したエジプト人に息子を委ね、マリアは結婚前に子供を宿し、自らの出産に立ち会ってくれる家族はいませんでした。(2020年に出産したお母さん方、聞き覚えのある話ですよね。)誰もそんな人生になるとは、思いもしなかったはずです。そんな三人が共通して持っていたもの。それは、神の平安です。 想定外の荒波に巻き込まれながらも、3人の母親は信じていたはずです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)  その結果、どうなったでしょうか。万事、うまくいったのです。自分たちが思っていた通りではありませんでしたが、主のご計画通りになったのです。先ほどのローマ人への手紙の聖句には、「私の」計画、「私の」目的、とは書かれていません。「神のご計画」です。3人は神のご計画、神のご意思にすべてを委ねたのです。神様に、自分を用いていただいたのです。もちろん、どんな状況であっても息子の誕生を喜んだことでしょう。一見、これは公平ではありません。でも、人生は決して公平ではなく、コロナも公平ではありません。それでも、私はローマ書8章28節を思い出すと、平安が与えられるのです。  母の日に、家族に何かプレゼントしたいですか。ぜひ、神様の平安をあなたの心にお招きしてください。必ずあなたの家庭に祝福が訪れます。  神様のご計画は、私たちが立てるどんな計画にも勝るものです。私は、人生で最も辛い時を過ごしたあの分娩室で、男の子を生みました。それは2020年5月10日、母の日でした。人生で初の、自分自身が母として迎えた母の日。息子を抱いて思わず微笑みました。これ以上の良い計画はあり得ない。我々の救い主、神様に栄光がありますように。 ◇高木 マイケン

家族に差し込んだ一筋の光 No.3

 神様と出会う前までの人生はとても空虚で、神様という存在自体信じておらず、死んだ後もただ無になるだけだと思っていました。いつも心が空っぽで、子供ながらに漠然とした不安と恐れを抱えて生きていました。そんな中でも、神様は「千恵子を取り戻す計画」をすでに始めてくれていました。  始まりは、私が中学生くらいの頃でした。ニュージーランドから帰ってきたばかりの姉の綾子と部屋で過ごしていると、いきなり「ちーちゃん(千恵子)、神様は本当で、ちーちゃんのことを本当に愛しているんだよ。髪の毛の本数も全部数えられて、ちーちゃんのいうこと全部優しく聞いてくれて、ちーちゃんのために死んでくれたくらい、神様はすっごく愛しているんだよ!」と言われすごく混乱したのを覚えています。それまでの人生、無神論者だった私は、まず神様なんて考えたこともなかったし、信じたこともありませんでした。なので、いきなり「神様は千恵子を愛しているんだよ」と言われたのがとても衝撃的で、「神様なんているわけないじゃん、おかしくなっちゃったの?」と心の中で思ったほどです。それに長年病気を患ってきていた姉を見てきていたため、「神様なんて言ってるけど、病気が悪化しちゃったのかな」と怖くもなりました。  しかし、今回の綾子は何かが違うな、とも感じました。今までは死んでいたような魂が、今は生き生きしているような感じがして「綾子に何が起こったんだろう」と思いました。そして、姉は神様の愛について話してくれた後、私のためにすごく一生懸命、汗も流れるような情熱的な祈りをしてくれたのを覚えています。  綾子はその日からよく神様の愛について語ってくれました。最初は全く聞く耳を持たなかった私も、綾子の神の愛に対する熱意に心を打たれ、「そんなに愛してくれる存在がいるんだ」と思い始めました。行く気のなかった教会も、少しづつ行ってみるようになりました。教会に行き、礼拝の曲を聞くたびに驚かされるのは心に感じる熱さでした。たまらず綾子に「この胸が熱くなる感じは何?なんで私泣いているの?」と聞きました。すると彼女は「神様がちーちゃんの心に触れているんだよ!」と言ってくれ、なぜかとてつもない愛を感じたのを覚えています。  また、高校3年の大学受験を控えていたある日、将来に莫大な不安を感じ「もう抱えきれない」と綾子に相談したとき彼女はこう言いました。「神様は千恵子の不安を全部取り去ってくれて、いつもちーちゃんの行く道を導いてくれるんだよ。神様の計画があるから大丈夫だよ」と。なんだか不安がすっとなくなった気がしたのを覚えています。その後、受かると思ってもみなかった大学に合格し、「本当に神様はそこにいて、私の願いを聞いてくれるんだ」と思いました。しかしその時点では神様の存在は信じているものの、自分の人生に受け入れるほど心はまだ向いていませんでした。  そして大学1年生のころ、心が引き裂かれるような経験をしたときに助け舟を出してくれたのはエブリネーションニュージーランドからの姉の友達である、シルビアでした。(彼女は当時日本に研修に来ていて、私達の家に一緒に住んでいました。)私のすべてを捧げていたものをなくし、涙がいつまでたっても止まらず、ただ癒しが欲しい一心でした。しかしシルビアはそんな状況にあった私のためにたくさん一緒に祈ってくれて、彼女自身の証や聖書の読み方、そして聖書のわからない部分などを教えてくれました。彼女は教会にもたくさん誘ってくれて、やっと「神様に心を向けてみようかな」と思い始めていたのですが、教会に行き神様の存在を感じるたびに、何かが(今思えば自分のプライドやら敵やらが)「信じてはだめだ!」と言っているような気がしてなかなか前に進めませんでした。しかしシルビアも諦めることなく私に根気強く福音を伝えてくれ、誕生日プレゼントにバイリンガル聖書をくれたりもしました。それをもらった当時はあまり喜べませんでしたが、今ではその聖書を毎日穴が開くほど読み、御言葉によって生きることが出来ています。シルビアには本当に感謝しています。  このようにしばらくは「信じたいけど信じられない」という時期を経たものの、姉達や教会の人々が根気強く私に福音を伝え、祈ってくれたおかげでやっとイエスを主として受け入れ、2019年の8月に洗礼を受けました。  神様がいない人生から神様のいる人生へシフトするのは簡単ではなく、受け入れるのにはすごく時間がかかりました。しかし幾度となく拒絶を繰り返しても、天の父はあきらめずに心のドアをノックし続けてくれました。「心のドアをノックしてくれた」というのは、私がどんなに「理解できない、もう聞きたくない」と耳をふさぐことがあっても、神様は姉達を通して、また姉が住んでいるニュージーランドや留学先のドイツ、現在通っている東京のエブリネーションチャーチの兄弟姉妹を通して、私に語り続けてくれたということです。そしてもし彼らが忍耐強く福音を伝えていなかったら、私は今全く違う人生を歩んでいたと思います。神様を受け入れるのに時間がかかった分、今は神様の寛大さや忍耐強さ、そして何よりもその大きな愛を感じています。  今では、自分の持っていた人生観を捨て「神様が私にとって一番良い計画を持っているということを確信し、神様の目的と栄光のために生きていこう」と決心しています。たくさんの時間をかけて聖書を読むようになり、教会の人と「人生を共にする」機会も増え、神様と神様の計画をもっと知りたいという情熱が、今までにないほど燃え上がっています。  そして今は、母親の救いのために祈っています。母も私達同様、前までは無神論者でしたが、私達姉妹3人の変貌を目の当たりにして「神様の存在を認めざるを得ない」と信じ始め、現在では「神様はいつも私と一緒にいてくれる」と毎日言ってくれるまでになりました。本当に神様の奇跡だなと感じます。これからもみんなが私に伝え続けてくれたように、私も母親に福音を伝え続けようと思います。みんなも一緒に祈って下さい!  そして私の祖父母のためにも祈ってください。コロナで訪問が出来ないので手紙でやり取りをしているのですが、そこに福音についてたくさんのページを使って書いています。神様が彼らを救ってくれることを信じています。  これを読んでくれている方々の中にも家族がまだ救われていないという人がいると思います。あなたへのメッセージはこれです。あきらめないで神様を信じましょう!私も長年心を固くしていましたが、姉たちがあきらめずに教会に誘ってくれたり福音について語ってくれたりしたおかげで、神様に向いてみようと思うことが出来ました。希望が見えなくても神様は働いています。 「愛はきわめて忍耐強く、親切です。」コリント人への手紙I 13:4  神様は愛であり、そして私たちをとっても愛しているからこそ、私たちが神様のもとへ来ることを忍耐強く待っておられるのです。 ◇長根山 千恵子

家族に差し込んだ一筋の光 No.2

姉の綾子が信仰に導かれた時、既に神様による私達家族の救いの計画が始まっていました。  今から約8年前、姉がインターナショナルな教会に行き始めたと聞いた時、「英語の勉強の延長かな。頑張って。」というくらいにしか受け止めていませんでした。けれども、姉が教会に通い始めてからは、みるみるうちに姉の生活や言動に変化が表れ、表情も別人のように明るくなりました。それは単なる表面的な変化ではなく、内側から丸ごと生まれ変わったかのようでした。  遂には、当時姉が抱えていた、様々な治療法を試しても中々効くことがなかった病も嘘のように良くなっていきました。その奇跡の過程を傍で見ていた私は、「これは人間の力では絶対に成し得ない何かが姉に働いたんだ」、「何かはわからないけど、姉は確かな答えを見つけたんだ」と思わざるを得ませんでした。  それからしばらく経ったある時、私はある出来事がきっかけで悲しみと絶望で一杯になり、姉に泣きついたことがありました。幼かった頃以来、姉に泣きついたことなどなかったのですが、その時は何故か、姉から何か言葉がもらえると感じていたのかもしれません。その時姉は、私の頭を撫でながらこう言いました。「神様はありのままのももたん(桃子)を愛してるんだよ。ももたんのために死んでくださったほどに愛してるんだよ。」他にも多くの言葉を掛けてくれましたが、この言葉をよく覚えています。  内心、「なんか話が逸れてる…」と思いましたが、私以上に私のことをよく知っており、私のために命を投げ出すほど愛してくれる方がいる、という感覚がとても不思議で新鮮でした。また、悲しみで一杯だった胸が、すっと軽くなったのを覚えています。そしてその時から、「愛でいっぱいの神様が、綾子の人生をここまで変えたのかな。」と感じるようになりました。  そこから私も、毎週ではありませんでしたが、姉と妹と一緒に教会に行き始め、教会のメンバーとの交わりを心から楽しんでいました。姉と同じように彼らからも、イエス様のような見返りを求めない深い愛情を感じたからです。  そして、賛美の時間、ワーシップソングを聞いた時、歌詞の意味はよく理解できなくとも、胸に強く迫るものを感じ涙が溢れることがしばしばありました。私は少しずつ、姉が言う神様の愛を、教会のメッセージ・賛美・人々から感じるようになり、「きっとここに人生の答えがある。」と思うようになりました。 そしてある時、教会家族と姉と共に祈り、イエス・キリストを救い主として受け入れることを決心しました。  私が信仰に導かれるまで、姉は周りの教会家族の方々と共に長い間必死に私の救いを祈っていたという話を後々聞きました。そして今度は私が妹や父母のために祈る番となり、2年前には妹も救われました。  次は、母が救われる時であると信じています。母は、私たち三姉妹が神様を受け入れてから劇的に変化したのを目の当たりにしているので、そのこと自体が母への大きな伝道となっています。  また、コロナ禍で家族の時間が増えたことがきっかけで、姉妹で力を合わせて(姉はニュージーランドからビデオ電話で)母へ積極的に福音を伝えることができています。そして既に様々な場面で神様は母に奇跡を起こしています。  これからどんな形で母が神様に出会い、神様と一緒に歩んでいくのか、それがとても楽しみです。一人の救いの背景には必ず誰かの祈りがあります。今、同じように家族の救いを祈っている方々がおられると思います。  決して焦らずに、そして、決して諦めないでください。  既に皆さんの存在自体が、神様の愛で変革された皆さんご自身が、ご家族への大きな伝道となっています。どれだけ時間がかかっても、回り道をしても、何一つとして無駄なことはなく、神様は全てを益とされ(ローマ人への手紙8:28)、それぞれの救いの時を用意されています。 そして、言葉が必要な時があれば、語るべき言葉を語るべき時に聖霊様が与えてくださいます。(ルカの福音書12:12)  家族の救いのために祈っている皆さんが、家族の光として一層輝き、ご家族が皆さんを通してイエス・キリストを体験し、出会う日を共に待ち望み、絶えず祈りましょう。(私の母の救いも共にお祈り頂けますと嬉しいです。) ◇長根山 桃子

家族に差し込んだ一筋の光

家族に福音を伝えることは時としてチャレンジになりえます。しかし、神様が時にかなって奇跡を起こしてくださる。私はそう信じています。  神様を信じて救われる前の私の人生は毎日心に穴が空いたような虚しさでいっぱいでした。そんなある日、当時通っていた英会話カフェの先生達に彼らが通っている教会に連れて行ってもらうことになりました。  教会のみんなはとても生命力に溢れていたのを覚えています。正直その時、「みんなすごく元気だな。この喜びと生命力は一体どこから来ているのだろう。」と不思議に思うと同時に、とても知りたいと思いました。  その次の週だったでしょうか、英会話カフェの先生に、「神様は本当にいるのですか?」、「あなたの信じている神様について教えてくれませんか?」とたずねました。  その時、イエス様が私達の罪を全て負って死んでくださったこと、神様がどれほど私を愛しているのかを知り、その場でイエス•キリストを信じる決意をしました。  そして私は、先生とカフェを経営している家族の方々と共に主イエス•キリストを受け入れるお祈りをしました。イエス様を受け入れるのに必要なことはただそれだけでした。彼による救いは恵みによるもの(フリーギフト)なのです。そうしてその日に私はクリスチャンになりました。  救われた時、一本の光がさしたようで、とてつもない平安に包まれ、これがずっと探し求めてたものだ!と感じたことを覚えています。  その日家に帰って早速家族にクリスチャンになったことを知らせました。その時の家族の反応は「ふ〜ん」といった感じだったと思います。  救われた後、色々な形で、特に教会のみんなを通してもイエス様の愛をもっと深く知り、本当にこのイエス様の愛を家族に伝えたい!伝えなければ!と思いました。  また、イエス様に家族が救われるように祈りました。教会のみんなにも家族が救われるように祈ってもらいました。  ことあるごとに、妹の桃子(ももこ)と千恵子(ちえこ)にイエス様のことを伝えました。イエス様は彼女達の罪を負って死んでくださるほどに愛していること、ありのままの彼女達を無条件に愛していることを伝え続けました。教会のみんなにも会ってほしくて、教会にも毎週誘いました。自分を飾らなくてもいいありのままの自分でいられる場所があるということを知ってほしかったですし、どうしてもこの神様の愛を知ってほしかったのです。  しばらくはあまりチャーチへ行くことに乗り気ではなかった妹達でしたが、私が救われてから劇的に変わったのを見て思うことがあったのでしょう、ある日の日曜日「教会へ行ってみようかな」と言いました。  それからさまざまな形で神様の溢れんばかりの愛を体験した2人は後に救われ、今現在は2人とも教会のワーシップミニストリーで奉仕をしています。  私はといいますと、教会を通して知り合ったニュージーランド人のクリスチャンの方と結婚し、今はニュージーランドに在住しています。2人で日曜日は教会に通っています。  神様は本当に今まで沢山の奇跡を見せてくださいました。そして今、私達姉妹は3人でお母さんにイエス様の愛を伝えている最中です。お母さんが救われる日はそう遠くはないことを私達は信じています。(本当に奇跡です!)  そしてまた、私達のお父さん、おじいちゃん、おばあちゃんがイエス様の愛を知り、救われるように3人で祈っています。教会のみんなも祈ってくれています。  みなさんも、是非ご自身のご家族が救われるように祈ってみてください。不可能と思われるような状況であったとしても、どうか諦めずに祈り続けてください。私の妹達も福音を聞いてすぐに救われたわけではありませんでした。彼女達は長い間、「神様自体存在しない」と固く信じていました。しかし、”神様はパーフェクトなタイミングで必ず私の家族を救ってくださる”と信じて祈り続けました。教会のみんなの祈りもとても励みとなりました。神様の存在を信じていなかった、全く信じられなかった妹達がイエス様の愛を知り、イエス様を主として受け入れたのは本当に奇跡です!  私はこれまでに、神様が予想していない形でミラクルを行ってくださることを身をもって体験してきました。そして、神様がこれからも沢山の奇跡をみせてくださることを期待しています。  どうかみなさん、ご家族のために祈り、全てを神様に委ねてみてください。 神にとって不可能なことは一つもありません。 (ルカ1:37) ◇タガロア綾子

御霊に強められて歩む

”私たちの内には「聖霊」がおられる”ということを聞いて、戸惑う人がいるでしょうか。  日本人の宗教観のひとつに、神様は様々な場所や物に宿っているという考えがあります。少し前には「トイレの神様」という歌が流行りましたし(懐かしい)、パワースポットや御朱印ブームは今も続いています。  神社やパワースポットへ訪れる人は、その場所にあると信じられている神秘的な力を求めています。「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、困難に直面したとき、立ち上がる力がほしいときには、私たちの方からその場所、そして神様に近付いて力をいただく。これが日本の文化に根付く神様の見方です。  だから、「神様がともにおられる」と聞くと、少し違和感を覚える人がいるかもしれません。でも聖書が語る神様は、そのような考えを180度変えます。 聖書には「恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)とあります。私たちの方から近付くのではなく、なんと神様の方から私たちに近付いてきてくださるのです。  近付いてくださるだけでなく、私たちの内に住まわれ、どんな時も私たちのともにおられます。その神様の霊が、「聖霊」です。聖霊とはイエス・キリストが天に昇られたあとで、私たちとともにおられるために与えられた御霊です。「聖霊」というと、何か目に見えない魂のようなものを想像するかもしれませんが、聖霊は神様、そしてイエス・キリストご自身であり、人として存在します。ですから私たちは友だちや家族とそうするように、聖霊とも関係を持ち、会話をし、交わることができるのです。聖霊については、ここではとても語り尽くせませんが、今日は2つの聖霊の力について紹介したいと思います。 1.聖霊はキリストの人生を通して、聖書と福音を理解できるように助けてくださいます     私が聖書を初めて読んだときは、内容が難しく、読み進めることに困難があったことを覚えています。でも、不思議と少しずつ聖書を理解するようになり、聖書に出てくる十字架やイエス・キリストの愛を本当の意味で体験するようになりました。なぜでしょうか?私たちの内におられる聖霊が、それを助けてくださるからです。聖書に書かれていること、そして神様の愛を理解することは、決してひとりではできません。聖霊が優しく、そして豊かに私たちに語りかけてくださることによってできるのです。     今は毎日聖書を読んでいますが、聖書の物語ひとつひとつがドラマのように目に浮かび、ことばが目の前に迫ってくるような臨場感を持って読んでいます。そして神様のことばを心から求め、読みたい気持ちで溢れています。聖書を読んだあと、神様からの語りかけを受け取って、平安と新しい力で満たされるのを感じます。みことばを読まないといられないほどです。聖霊を通してみことばを読むとき、聖霊は私たちに新しい霊的な眼鏡を与え、聖書と福音を理解することを助けてくださるのです。     また、聖霊は私たちに必要なものを、みことばを通して時にかなって与えてくださいます。悲しみのときには慰めを、恐れの中では励ましを、不安の中には平安を与えてくれます。コロナ禍で、これまで以上に孤独や困難を体験した人もいるかもしれません。私も多くの予期せぬ出来事に直面しましたが、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:5)と聖書にある通り、この約束をつかみ、聖霊の励ましと力を受けて、神様とともに乗り越えることができました。聖霊は私たちが神様の愛、喜び、平安の中で生きることを助けてくれます。 2.聖霊は弱い私たちを助け、正しい方向に導いて下さいます  自分の力には限界があります。限界があるどころか、出来ないことの方が多いのかもしれません。私は大学4年生の3月に救われたので、就職活動をしているときはクリスチャンではありませんでした。今振り返れば、自分の力で必死にもがく毎日だったなあと思います。進む道がわからず、助けてくれる人もいない、そんなところを歩いているかのような不安がありました。     今、私の人生にはどんなときも正しい方向に導いてくださるお方がともにいます。そのお方を100%信頼してすべてをゆだねるなら、私たちは自分の力で頑張る必要もあれやこれやと心配する必要はないんです。  エブリネイション教会のミッション声明は「日本、アジア、そしてすべての国にキリスト中心で御霊に強められた、社会的に責任を持った教会と キャンパスミニストリーを建て上げることで神に栄光を帰す」です。    私たちは御霊に強められた者であり、御霊に強められた教会です。”御霊に「強められた」”という表現が、私は神様のご性質をあらわしていてとても好きです。神様の霊は、私たちのそのままを愛し、強め、励ましてくださる、そのような霊です。そして御霊によって、私たちは真理を知り、そうでない罪から離れた自由と喜びの内を歩むことができるのです。     初めて教会に来てくださる方から、よく「教会の人は何かが違う気がする」と言われることがあります。クリスチャンの内側から出る喜びとエネルギーの秘密が、少しはお伝えできたでしょうか。 ◇鈴木歩未

キリスト中心

みなさんの人生の中心には誰がいますか?何がありますか?  私たちは皆生きていくのに誰かを、何かを中心にしていると思います。お金や名声、評価や知識、見た目や持ち物、友達や家族などです。その中心が満たされると安心し生きていく力を得ます。反対に満たされなければ不安になり、満たされるように求め続けたり時には諦めたりします。  神様と出会う前、私はいつも理想の自分を求めていました。そして私の中心には周りの反応や評価に影響される自分がいました。神様と出会い、2008年にイエス様を自分の主として受け入れた後、自分は神様中心に歩んでいると思っていました。でも実際は、自分の中心にはまだまだ自分がいました。  エブリネイション教会のミッション声明では「日本、アジア、そしてすべての国にキリスト中心で御霊に強められた、社会的に責任を持った教会と キャンパスミニストリーを建て上げることで神に栄光を帰す」です。   私の経験を交えながらキリストを中心について少し分かち合わせてください。 1 自分中心  理想の自分を求めて生きていた私は、救われてからも何とか理想のクリスチャンを目指していました。頑張って認められ、評価され、理想のクリスチャンになろうと。気がつくと、奉仕をしている自分、賛美している自分、神様に仕えている自分、祈りが応えられた自分中心になっていました。自分の中心には理想の自分になろうとする自分がいたので、理想に近づけると嬉しくなり、近づけないと不安になっていました。神様を求めているつもりが、神様を求めている自分を求めていました。自分の中心に神様がいないことに気づいた後、神様を中心に生きたいと祈りました。 2 キリスト中心  神様を中心に生きることについて考えた時、イエス様のことを思い出しました。イエス様は自分の思いや感情、痛みよりも天の御父様の思いを求めました。神様を中心にすることは正直怖かったです。今まで積み上げてきたもの、積み上げてきた自分が消えてしまいそうな感覚でした。  でも、いつも変わらない、いつも変わらずに愛してくれる方を中心にしたら、もう自分で満たそうとしなくてもいいんじゃないかと思いました。  神様は私を見て、無条件に愛しているよと言ってくれています。私は恵みによって救われました。それは私が何かをしたからでも、何ができるからでもなく、ただ神様の恵です(エペソ人の手紙2:8)。そして神様は私たちの心を求めています。  それまで自分で何とか満たそうとしてきた部分を少しずつ神様に渡していきました。他の人から評価されたい気持ちを渡し、神様の愛に溢れた目を見つめます。何とか認められようとしていた気持ちを渡し、いつも変わらず愛してくれる神様を見つめます。誰かを喜ばせようとする気持ちを渡し、ありのままの自分を愛してくれる神様を見つめます。  神様が少しずつ心の中で働き始めてくれました。それまで認められようと頑張っていた気持ちが変わりました。自分のためではなく神様と他の人に仕えたいという思いが芽生えました。思い通りになった一瞬の満足感ではなく、心が求めていた平安が来ました。そして、神様のために生きる喜びと力、目的を受け取りました。  私たちは何かを、誰かを賛美するために作られています。もしも賛美をする対象が移り変わる自分自身や人、物だったら私たちの心も揺り動かされてしまいます。  いつも変わらない、無条件に愛してくれる神様は私たちの中心になって私たちとの関係を築きたいと思われています。みなさんは神様との関係を受け取りますか?キリストにおける私の兄弟姉妹、そしてまだあまり神様のことを知らない方へ。自分自身に問いかけて心を見てほしいです。みなさんの心の中心には誰が、何がいますか?それは永遠の平安をくれますか?それとも一瞬の楽しさでしょうか。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 ガラテヤ人への手紙2章20節 ◇岩手早代

宣教

なぜ「行く」のか? ヨーロッパと聞くと、華やかな風景のパリやロンドンを思い浮かべ、ヨーロッパでの素敵な生活を夢見る日本人も多いはずです。一方、ルーマニアで育った事以外、自分には日本を離れる理由が特にありませんでした。 現在、妻と二人でルーマニアに移住してから2年以上の月日が経った事を思い出し、この投稿を書いています。そして今回はその経緯を、皆さんに分かち合いたいと思います。 私と妻はそれぞれ東京にある知名度の高い大学を卒業し、フルタイムの仕事に就いた後、結婚しました。結婚後は、都内でお気に入りの公園の真向かいに建つアパートに住み、個人的にはとても満足に暮らしていました。そして友達や教会の仲間にも囲まれ、日本での生活は確実に整い始めていました。むしろこのままずっと、安定した生活が送れると他の人には映っていたかもしれません。では、なぜ私たちはその生活を犠牲にしてまで、住む場所のあてもない、親しい友だちもいない、更には将来さえも予測できない土地へ移住する決断をしたのでしょうか。 それは、神様が「行きなさい」と召されたからです。そして私たちは、従順の心で受け入れ、それに従ったのです。持っていたもの全てを手放し、親戚や友達を置いて日本を離れる事を考えると、正直なところ不安でいっぱいでした。でも、周りにどう思われようとも、キリストから与えられた人生を神様のために生きると私は心に決めていました。お金や完璧なキャリアは神様が与えてくれる良いものですが、やがて消え去ります。そのためだけに生きるのではなく、永遠なるイエス(福音)について多くの人に語ることこそが人生の目的ではないでしょうか。 さて神様は、この決断を通して知らず知らずのうちに、想像を超えた冒険へと私たちを導いていたのです。信仰を持って一歩ずつ踏み出す度、神様はその先で必ず私たちを迎えてくれました。神様が与えてくれた奇跡のような経済的備えや機会の数々は、この投稿では伝えきれません。また、ルーマニア人との交友関係も与えられ、その中で福音を伝え、彼らがイエスに立ち返り信仰を置く過程を見ることは一番の喜びです。 信仰ゆえに従わなければ、このような経験を味わう事は決してなかったでしょう。宣教の召しに応える者のために、神様はとっておきの冒険を用意しているのです。 パンデミックの中での宣教 イエスは弟子たちに、エルサレム、ユダヤ、サマリア、更には世の果てにおいて、自身の証人となると確かに言われました。それではパンデミックで移動の困難が続く今、全世界を対象とした宣教は一体どのようにして叶えられるのでしょうか。 実は宣教の使命を果たすのに、飛行機に乗る必要は必ずしもありません。この状況下、神様が心に示した特定の人に手を差し伸べる事は「行く」事と等しいのです。それは、身近なところで近所の人や地元のスーパー、通学するキャンパスや勤務先かもしれません。その上、オンラインでもオフラインでも、今はメッセージ1つで会う予定が立てられる便利な時代。皆さんが手を差し伸べた一人を通して、神様はその家族の心にも触れ、次の世代に変革をもたらし、やがてそれは国全体へと広がります。私たち一人一人が福音を伝えると、国そして全世界を変えることができるのです。 エブリネイション教会が宣教を大切な価値観の一つとしている事に、感謝しています。キリストに従う中で、近所の方や仕事仲間、クラスメートやまだ出会ったことのない人のため、神様の「ミッション(宣教の召し)」を受ける機会が与えられるのです。もちろんいずれ、神様は皆さんをこのミッションを受ける者とするでしょう。それは想像を超える冒険であり、これまでにない祝福が待っているはず。そして何より、皆さんを通して国々が祝福されます。さぁ、神様のために行けますか? ◇ 高木雄二郎

偉大な信仰

神様は断食を用いて御国を広げ、国々の進む方向を変え、リバイバルを起こし、日々の生活に勝利をもたらします。エブリネイションの教会とキャンパス・ミニストリーは、毎年はじめに5日間の祈りと断食の時を持って神の前にへりくだり、新年に向けて自らを聖め、共にブレークスルーを求めて一致します。 https://tinyurl.com/greatfaithjapan

揺ぎない希望

揺ぎない希望 コネクト メッセージの中で、何が一番印象的でしたか?このメッセージを通して、神様は自分に何を語っていると思いますか。 最近、どんなことを願っていますか。グループで話してみましょう。 みことば 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(ペトロの手紙第一1:3-5) 聖書を読むと、神にあってのゆるぎない希望があると気付きます。神は真実なお方、神の約束は心から信じるに値します。神様が約束してくださったことは、永遠のいのちを与えること、神を愛する人にはすべてを働かせて益とすること(ローマ8:28)、その他、数えきれないほどの約束があります。 神にあっての希望のもとに、私たちは神を信頼し、すべての国々に行って弟子を作るという神の命令を守ることができます。イエスはこの世の終わりまで私たちと共におられると約束されました。  日々の生活にあてはめる 聖書に書かれた約束のうち、神様が特にあなたに思い起こしている約束は何でしょう。グループで話してみましょう。 その約束に望みを置くと、神を信じ、神に従うにあたりどんな風に助けられますか。グループで話しましょう。 イエス・キリストを信じる私たちは人生に大きな希望があります。まだイエスを知らない人たちに、この希望をどう分かち合うことができるか話し合ってみましょう。 お祈り キリストにあってゆるぎない希望を与えてくださった主に感謝しましょう。この希望はこの世においてだけでなく、永遠に続くものです。人生を通して約束を守ってくださる真実な神を称えましょう。 自分の知っている人で、福音を聞いてイエスに出会う必要がある人を思い浮かべて祈りましょう。今週、イエスのことをその人にどう知らせればよいかグループで祈り、話し合いましょう。